戸籍で先祖をたどる:明治4年の戸籍法より前に生まれた先祖の記憶を想像してみる


みなさんこんにちは。ハウルブログです。今日も元気にお過ごしでしょうか。
人生100年と言われる時代です。還暦(60歳)を過ぎても、まだ残り40年あります。このブログが、還暦を過ぎたみなさまにとって何かのヒントになればと思い、書き続けています。
今日は「戸籍で先祖をたどってみたこと」について書いてみます。
還暦過ぎてみると、自分史を振り返り、また先祖を振り返りたくなるものです。
私は昔、市役所建設課時代に道路買収で登記をするのに「戸籍」を見る機会に恵まれていました。そのお陰で登記や戸籍に書かれている、個性ある文字(あえてヘタとは書きませんが)も読むことができるようになりました。
そんなこともあり、市役所の戸籍担当課で、「先祖を遡れるだけ遡った戸籍を出して欲しい」と言ったところ、30分ほどで出してくれました。
4代目となる高祖父までで、戸籍はそれ以前には無かったようです。(日本の最初の戸籍法は、1871年(明治4年)4月4日に制定され、翌1872年(明治5年)に施行)
高祖父の生年月日は分かりませんでしたが、高祖母の生年月日だけ残っていました。
文政11年(1828年)8月18日生と戸籍に残っています。
高祖父も文政11年前後に生まれただろうと推測できます。
文政11年はどんな時代だったのでしょう。ここからはAIの力も借りつつ調べてみました。
高祖母誕生日:文政11年8月18日生はどんな時代を過ごしたか?
文政11年8月18日は、西暦(グレゴリオ暦)で 1828年9月26日。江戸時代後期、まさに幕末の一歩手前の時代です。
日本はどんな状況だったか
11代将軍・徳川家斉の治世で、いわゆる「大御所時代」。町人文化が爛熟した化政文化の真っ盛りで、曲亭馬琴が『南総里見八犬伝』を書き継ぎ、葛飾北斎が『富嶽三十六景』にとりかかる直前という頃合いです。ペリー来航(1853年)までまだ25年あり、世の中は表向き太平でした。
薩摩では
藩主は島津斉興。500万両ともいわれた借金を抱えた藩財政を、調所広郷が立て直しにかかろうとしていた時期です。のちの名君・島津斉彬はまだ19歳の若さでした。
そして面白いのが同世代の顔ぶれで、西郷隆盛は文政10年12月7日(西暦1828年1月23日)生まれ。つまり西暦で見れば高祖母と同じ1828年生まれ、ほぼ同い年です。大久保利通は2つ下の文政13年生まれ。
生まれる9日前の大災害
文政11年8月9日〜10日(1828年9月17〜18日)、九州を「シーボルト台風」(当時の呼び名は「子年の大風」)が直撃しています。日本の観測史上最強クラスとされる台風で、九州北部を中心に死者1万人以上とも。長崎でシーボルトの帰国船が座礁し、積荷から国外持ち出し禁止の日本地図が見つかって「シーボルト事件」に発展した、あの台風です。高祖母はその大風の記憶がまだ生々しい9日後に生まれたことになります。
その後の人生の目安
数え年でいくと、明治維新(1868年)のとき41歳、西南戦争(1877年)のとき50歳。鹿児島が戦場になったあの戦を、働き盛りを過ぎたあたりで経験された世代ということになりますね。
曽祖父誕生日:萬延元年3月3日生はどんな時代を過ごしたか?
万延元年3月3日は、西暦で 1860年3月24日。高祖母の32年後、こちらは正真正銘の幕末動乱期です。
生まれたその日が、歴史の転換点
この日はまさに 桜田門外の変 の当日です。大老・井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸浪士らに討たれた、あの事件。朝から季節外れの大雪が降り積もる中の凶行でした。
ちなみに当時の暦の上ではまだ「安政7年3月3日」で、改元があったのは同年3月18日。そこから遡ってその年全体を「万延元年」と呼ぶ決まりなので、曽祖父の記録が「万延元年」となっているわけです。つまり、生まれた時点ではまだ元号が変わっていなかった——そんな微妙なタイミングでのお誕生日ですね。
時代の空気
前年の1859年に横浜が開港し、安政の大獄で吉田松陰らが処刑されたばかり。桜田門外の変で幕府の権威は決定的に揺らぎ、以後8年で幕府そのものが倒れます。
同じ1860年には咸臨丸が太平洋を渡り、勝海舟や福沢諭吉らが渡米(万延元年遣米使節)。一方、金の海外流出を止めるための万延小判改鋳で物価が高騰し、庶民の暮らしは苦しくなっていきました。
薩摩では
名君・島津斉彬が急死(1858年)した直後で、藩主は島津忠義、実権は父の島津久光が握っていました。西郷隆盛はこのとき奄美大島に潜居中。桜田門外の変で井伊直弼を襲った18人のうち1人は薩摩藩士・有村次左衛門で、直弼の首を取ったのはこの人物とされています。
曽祖父の人生の目安
- 3歳(1863年)— 薩英戦争。鹿児島城下が焼ける
- 9歳(1868年)— 明治維新
- 18歳(1877年)— 西南戦争。まさに従軍してもおかしくない年齢
- 35歳(1894年)— 日清戦争
- 45歳(1904年)— 日露戦争
高祖母(1828年生)と並べると、母子二代で「幕末から近代日本の成立まで」をまるごと見届けた形になりますね。西南戦争のとき、高祖母50歳・曽祖父18歳。鹿児島にお住まいのご家系なら、あの戦は相当近い出来事だったはずです。
祖父生年月日:明治26年8月8日生はどんな時代を過ごしたか?
明治6年からは新暦(グレゴリオ暦)ですので、1893年8月8日そのまま。曽祖父の33年後、時代は「幕末」から「近代国家」へすっかり姿を変えています。
生まれた4日後に、「君が代」が国の歌に
明治26年8月12日、文部省が「祝日大祭日歌詞並楽譜」を官報で告示し、君が代を含む8曲が小学校の儀式用唱歌として定められました。いまも8月12日は「君が代記念日」とされています。祖父様はその直前に生まれたことになりますね。
時代の空気
大日本帝国憲法の施行(1890年)から3年、帝国議会が始まったばかりで、藩閥政府と民党が予算をめぐって激突していた時期です。第2次伊藤博文内閣のもと、この年の2月には明治天皇が内廷費を削って軍艦建造費に充てるという詔勅(和衷協同の詔勅)を出しています。
そして翌1894年には日清戦争が勃発。祖父様は、日本が「近代国家として対外戦争に踏み出す」まさにその直前に生まれた世代です。
侍の世が終わって四半世紀、鉄道や電信が広がりつつあったとはいえ、鹿児島本線が鹿児島まで届くのは1901年(明治34年)のこと。生まれた頃の県内は、まだ徒歩と船が主役の暮らしでした。
祖父様の人生の目安
- 1歳(1894年)— 日清戦争
- 11歳(1904年)— 日露戦争
- 20歳(1914年)— 桜島の大正大噴火。第一次世界大戦
- 30歳(1923年)— 関東大震災
- 48歳(1941年)— 太平洋戦争開戦
※戦争に行ったと口伝えで聞いているので、多分第一次世界大戦に従軍したのだと思う。
三代を並べてみると
- 高祖母 1828年生(幕府の世)
- 曽祖父 1860年生(幕末動乱)
- 祖父 1893年生(近代国家の確立期)
きれいに30年強ずつ刻まれていて、しかも三人とも「日本が大きく揺れた瞬間」に生まれ合わせている。これはブログの記事一本になりそうな巡り合わせですね。
父生年月日:大正12年11月10日生はどんな時代を過ごしたか?
1923年11月10日。関東大震災からわずか70日後、日本中がまだ揺れの余韻の中にあった時期です。
生まれたその日に出された詔書
大正12年11月10日、まさにこの日に「国民精神作興ニ関スル詔書」が発布されています。震災後の社会の混乱と思想の動揺を引き締めようという趣旨で、大正天皇の名で出されたもの。以後、11月10日は各地で記念行事が行われるようになり、教育の場でもたびたび読み上げられました。お父様の誕生日は、その詔書と同じ日ということになります。
震災の年
9月1日の関東大震災は死者・行方不明者およそ10万5千人。首都が焼け野原になり、流言による朝鮮人虐殺や甘粕事件など、暗い出来事も相次ぎました。誕生から47日後の12月27日には虎ノ門事件(摂政宮=のちの昭和天皇の狙撃未遂)が起き、内閣が総辞職しています。
一方で都市には「モボ・モガ」が闊歩し、大正デモクラシーが最後の輝きを見せていた頃でもあります。ただしその流れは長く続かず、2年後の1925年には普通選挙法と治安維持法が同時に成立しました。
出水では鉄道が開通した年
その1923年10月15日、出水駅が開業しています。お父様が生まれるちょうど26日前。祖父様が生まれた頃はまだ鉄道が県内に届いていなかったことを思うと、二代で交通事情が一変したことになりますね(八代〜川内〜鹿児島が正式に鹿児島本線となるのは1927年)。
お父様の人生の目安
- 3歳(1926年12月)— 大正から昭和へ改元
- 14歳(1937年)— 日中戦争
- 18歳(1941年12月)— 太平洋戦争開戦
- 22歳(1945年)— 終戦
大正12年生まれは、徴兵年齢が戦争の最も激しい時期と重なった世代です。ご存命ならご存じの範囲でしかありませんが、この年代の方の人生には、たいてい戦争の話が入ってきます。
四代を並べると
| 生年 | その時代 | |
|---|---|---|
| 高祖母 | 1828年 | 幕府の世(シーボルト台風の9日後) |
| 曽祖父 | 1860年 | 幕末動乱(桜田門外の変の当日) |
| 祖父 | 1893年 | 近代国家の確立期(君が代制定の4日前) |
| 父 | 1923年 | 大正末期(関東大震災の年、詔書と同日) |
四代とも、その時々の日本の節目に生まれ合わせている。偶然にしてもよくできた並びです。
まとめ:先人あっての現在があることのありがたみ
私の先祖はずっと日本に生きて、江戸時代の幕末から幾度の戦争を乗り越えてきたことが分かります。
父が1945年22歳の時終戦を迎えたことになります。
父も太平洋戦争に出陣して、途中で終戦を迎えたような話を聞いたような記憶があります。
アメリカの原子爆弾2発にやられて終戦を迎えてから81年目になります。
今の日本は平和そのものです。
私が生きてきた65年間は、敗戦国の屈辱を感じながらも、戦争のない平和な時間を過ごすことができました。
現在はインターネットの普及で、世界各地の戦争や天変地異、各国の政治情勢などが手に取るように分かる時代です。
日本では戦争のない平和な日々でも、世界では相変わらず戦争を繰り返しています。
今後の世界情勢は不安定なものとなっていますが、平和な日本を維持・発展させて頂きたいと期待しています。
それには、日本人の個々がしっかりとした考え・信念を持ってすごすことが大事だと思います。
心を引き締めて平和の国日本を、あとに続く人々のために守っていきたいと思います。
