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都市伝説

耀盌(ようわん)とは?出口王仁三郎の茶碗と「水」の話

出口王仁三郎の耀盌(ようわん)を思わせる、えんじと瑠璃色に金が輝く楽焼の茶碗
noira.0453@outlook.jp
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ハウル
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みなさんこんにちは。ハウルブログです。今日も元気にお過ごしでしょうか。

人生100年と言われる時代です。還暦(60歳)を過ぎても、まだ残り40年あります。このブログが、還暦を過ぎたみなさまにとって何かのヒントになればと思い、書き続けています。

今日は「出口王仁三郎の耀盌(ようわん)」について書いてみます。

結論から言うと、耀盌(ようわん)とは、宗教家の出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)が晩年に作った楽焼(らくやき)の茶碗です。

わずか1年3か月ほどの間に、3,000個以上も作られました。そして、この茶碗で水を飲むと、王仁三郎の思いが伝わる。そんな話があるのです。

久しぶりに、Naokiman Show(ナオキマンショー)の話です。

2週間前、Naokiman Show のオンラインサロンに再加入しました。なんとなく、ナオキマンが呼んでいる気がしました。

戦争や自然災害など、世の中の出来事の裏話(都市伝説)を聞きたくなりました。ウクライナ戦争・イラン戦争の裏話、地震や大雨災害の裏話など、真実はどこにあるのか知りたくなりました。

サロンには、目からウロコの対談動画が増えていました。地政学をゲーム理論で解説する「ジャン教授」、元国防省エージェントのKさん、世界のお金の闇を知る男。以前から知っている、VIVANTで言われている別班に居た?元・政府専属鑑定師の香心華心明さん。

どれも、ひとつ観はじめると2時間ほど掛けて観てしまいます。

今日は、その中から「出口王仁三郎の耀盌を持つ男」山口隆之さんとの対談の話をしたいと思います。

出口王仁三郎とは?日本に大きな影響を与えた宗教家

出口王仁三郎は、明治4年(1871年)、今の京都府亀岡市に生まれました。宗教団体「大本(おおもと)」を大きく育てた人です。

対談でまず驚いたのは、王仁三郎が日本に与えた影響の大きさでした。

公開されている情報を調べてみても、その広がりはなかなかのものです。

  • 口述した『霊界物語』は、全81巻83冊という大作
  • 合気道を開いた植芝盛平(うえしば もりへい)は、王仁三郎のもとで学び、大きな影響を受けた
  • 大本は「現代の新宗教の源流のひとつ」と言われ、影響を受けた教団が多い

宗教の世界だけでなく、武道や芸術にまで足跡を残した人なのです。

出口王仁三郎は、大川隆法やスピリチュアル系の人達から、チラチラと聞く感じでした。

出口なおとは?大本のはじまり

大本のはじまりは、王仁三郎ではなく、出口なお(でぐち なお)という女性です。

なおは、明治25年(1892年)、京都府綾部で神がかりになりました。その後、文字を書けなかったはずのなおが、神の言葉を紙に書き続けたと言われています。これが「お筆先(おふでさき)」です。

明治31年(1898年)ごろ、まだ上田喜三郎と名乗っていた若き王仁三郎が、なおと出会います。やがて、なおの娘・すみと結婚して出口家に入り、「出口王仁三郎」となりました。

なおが神の言葉を受け取り、王仁三郎がそれを広めていく。二人がそろって、大本は大きくなっていきました。

なぜ弾圧された?二度の大本事件

大本は、国から二度、厳しい弾圧を受けています。

事件主なできごと
第一次
1921年
大正10年。王仁三郎が逮捕される。本宮山の神殿が壊される
第二次
1935年
昭和10年。王仁三郎ら幹部が逮捕される。教団の施設は徹底的に壊され、活動停止に

第二次大本事件では、王仁三郎は不敬罪などで有罪とされました(のちに治安維持法違反は無罪)。保釈されて出てきたのは、昭和17年(1942年)。6年以上もの獄中生活でした。

対談で心に残ったのは、「弾圧されるほど、信仰が強かった」ということです。国が恐れるほど、多くの人の心をつかんでいた、ということでもあります。

耀盌(ようわん)とは?3,000個以上作られた茶碗

さて、いよいよ耀盌の話です。

大本の公式サイトによると、耀盌が作られたのは、昭和19年(1944年)12月29日から昭和21年(1946年)3月25日まで。王仁三郎が亡くなる(1948年)少し前の、最晩年の作品です。

  • 場所:亀岡の楽焼窯
  • 数:茶碗だけで3,000個以上(水差しなども入れると約5,000点)
  • 色:えんじ、瑠璃(るり)、黄色、緑など、とても鮮やか
  • 特徴:表面に打たれた小さな穴。星空のようにも見える

実は王仁三郎は、それより前にも数万点の茶碗を作っていました。ところが、第二次大本事件でそのほとんどが壊されてしまいます。保釈後、壊された茶碗を前にして「もう一ぺん造る」と言ったと伝えられています。

70歳を過ぎてから、もう一度3,000個。同じ60代の私としては、この話だけで背筋が伸びます。

「耀盌」という名前の由来

「耀盌」という名前は、王仁三郎が付けたものではありません。

王仁三郎が亡くなった翌年の昭和24年(1949年)、陶芸評論家の加藤義一郎さんがこの茶碗を見て驚き、「耀盌」と名付けて雑誌で紹介しました。「耀」は、かがやく、という意味です。

その少し前には、備前焼の金重陶陽(かねしげ とうよう、のちの人間国宝)も「古今独歩(ほかに並ぶものがない)」と評したそうです。

海外でも絶賛された

耀盌は、海外でも高く評価されました。

1972年にはパリの美術館で展覧会が開かれ、フランスの新聞ル・モンドは、画家のボナールやルノワールにたとえて褒めたそうです。ヨーロッパと北米で、あわせて20万人以上が観たと言われています。

王仁三郎は「芸術は宗教の母なり」と説いていました。美しいものを通して、神に近づく。耀盌は、その考えを形にしたものだったのかもしれません。

耀盌の水を飲むと、どうなる?

対談で、山口隆之さんは耀盌をいくつも持っていると話されていました。3,000個以上あるとはいえ、なかなか手に入るものではありません。

そして、いちばん興味をひかれたのが「水」の話です。

耀盌に刻まれた小さな穴には、王仁三郎の思い(波動)が込められている。耀盌に水を入れて飲むと、その波動が水に伝わり、王仁三郎の思いが伝わる、というのです。

調べてみると、王仁三郎は茶碗の穴を打つとき、「かんながらたまちはえませ」という言葉(言霊)を込めていた、という話も伝わっています。

さらに対談では、三島由紀夫や、中学生のころのユーミン(松任谷由実さん)が、その水を飲んだという話も出ました。この話は、公開されている資料では確かめられませんでした。都市伝説として、そっと胸にしまっておきます。

「水は記憶する」ということを増川いづみさんが、Naokiman Showの対談で言われていたことを思い出しました。

機会があれば、その水を飲んでみたいと思います。思考が宇宙全体に飛んでいくような気がします。

まとめ:耀盌は「もう一度つくる」力の証

今日は、出口王仁三郎の耀盌(ようわん)について書きました。

  • 耀盌とは、出口王仁三郎が最晩年に作った楽焼の茶碗。3,000個以上ある
  • 大本は出口なおから始まり、王仁三郎が大きく育てた。二度の弾圧を受けるほど、信仰の力が強かった
  • 名前は没後に評論家が付けた。海外でも絶賛された
  • 耀盌に水を入れて飲むと、王仁三郎の思いが伝わると言われている

私がいちばん心に残ったのは、壊された茶碗を前に「もう一ぺん造る」と言った王仁三郎の姿です。

何歳になっても、やり直すことはできる。人生100年時代、60代の私も、もう一度何かを作ってみたいと思います。

経営者となるために、Claude AIの手伝いをもらいながら、様々な角度から知識・人脈を積み上げていきたいと思います。

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ハウル
ハウル
自由を目指すアラカン
「人生100年時代」をともに生きるあなたへ。
何かヒントになればと思い2022年11月にブログをスタートしました。
旅(神社仏閣巡り)・還暦野球・ゴルフやってます。

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