空海が伝えた理趣経「十七清浄句」を読む――欲は本当に汚れたものなのか


みなさんこんにちは。ハウルブログです。今日も元気にお過ごしでしょうか。
人生100年と言われる時代です。還暦(60歳)を過ぎても、まだ残り40年あります。このブログが、還暦を過ぎたみなさまにとって何かのヒントになればと思い、書き続けています。
今日は「空海が伝えた理趣経」について書いてみます。
1200年以上にわたって脈々と受け継がれてきた、空海の真言密教。
高野山の奥の院へ続く参道には、織田信長や豊臣秀吉といった戦国武将から、松下幸之助ゆかりの企業まで、数えきれないほどの墓所が並んでいます。
これほど多くの人々の心を捉えてきた力の源はどこにあるのか。
いろいろと調べてきた中で、私はそれが「理趣経」、それも人間の性や欲をまるごと肯定するあの教えにあるのではないかと思うようになりました。
若い頃からの「迷い」と、ひとつのお経
性欲は汚れたものなのか、それとも人間として自然なものなのか。私は若い頃から、この問いをずっと胸の奥に抱えてきました。
好きな人に惹かれる気持ちや、肌を触れ合いたいという思いは、どう考えても自然なものです。それなのに、どこかで「いやらしい」「恥ずかしい」と後ろめたさを感じてしまう。肯定したい自分と、否定する自分。その綱引きは、65歳を過ぎた今になっても完全には決着していませんでした。
そんなとき出会ったのが、空海が唐から持ち帰った『理趣経(りしゅきょう)』の「十七清浄句(じゅうしちせいせいく)」です。そこには、男女の交わりの喜びそのものを「清らかな菩薩の境地だ」と言い切る言葉が並んでいました。1200年前のお坊さんが、こんなに堂々と書いていたのかと驚きました。今回は、この十七清浄句を原文から一句ずつ読みながら、私なりに考えたことを書いてみます。
理趣経ってどんなお経?
理趣経は、真言宗で毎日の勤行や法事に読まれている、いちばん身近なお経です。正式名は『大楽金剛不空真実三昧耶経(だいらくこんごうふくうしんじつさんまやきょう)・般若波羅蜜多理趣品(はんにゃはらみったりしゅほん)』。唐の不空(ふくう)三蔵が漢訳し、806年に空海が日本へ持ち帰りました。
中身は『般若経』の「空」の教えを、密教の立場から説き直したものです。全部で十七段あり、その最初の段(初段)に登場するのが今回の十七清浄句です。法事で、抑揚のある独特な節回しのお経を聞いたことがあれば、それが理趣経かもしれません。
十七清浄句の原文
まずは原文をそのまま載せます。初段で、大日如来が金剛薩埵(こんごうさった)に向かって説く場面です。
説一切法清浄句門。
所謂
妙適清浄句是菩薩位
欲箭清浄句是菩薩位
触清浄句是菩薩位
愛縛清浄句是菩薩位
一切自在主清浄句是菩薩位
見清浄句是菩薩位
適悦清浄句是菩薩位
愛清浄句是菩薩位
慢清浄句是菩薩位
荘厳清浄句是菩薩位
意滋沢清浄句是菩薩位
光明清浄句是菩薩位
身楽清浄句是菩薩位
色清浄句是菩薩位
声清浄句是菩薩位
香清浄句是菩薩位
味清浄句是菩薩位
何以故。
一切法自性清浄故。
般若波羅蜜多清浄。
【読み(読誦の漢音)】
せいっせいほうせいせいくもん
そい
びょうてきせいせいくしほさい
よくせんせいせいくしほさい
しょくせいせいくしほさい
あいはくせいせいくしほさい
いっせいしさいしゅせいせいくしほさい
けんせいせいくしほさい
てきえっせいせいくしほさい
あいせいせいくしほさい
まんせいせいくしほさい
そうげんせいせいくしほさい
いしたくせいせいくしほさい
こうべいせいせいくしほさい
しんらくせいせいくしほさい
しょくせいせいくしほさい
せいせいせいくしほさい
きょうせいせいくしほさい
びせいせいくしほさい
かいこ
いっせいほうしせいせいせいこ
はんじゃはらびたせいせい
書き下すと「一切の法の清浄なる句門を説く。いわゆる、妙適清浄の句、これ菩薩の位なり……」。最後は「何をもっての故に。一切法は自性清浄なるが故に」と、その理由で締めくくられます。
「清浄句是菩薩位」が十七回くり返されるリズムが特徴で、読誦では「せいせいくしほさい」と漢音で唱えます。
十七句を一句ずつ読んでみる
十七句は、男女が惹かれ合い、結ばれ、満ち足りるまでの流れを順に描いている、と昔から解釈されてきました。後半は人間の感覚そのものへと広がっていきます。意味の取り方には諸説ありますが、代表的な解釈を表にまとめます。
| 句 | 意味 | 暮らしの中での例 |
|---|---|---|
| 1 妙適(びょうてき) | 男女が結ばれたときの、とろけるような恍惚 | 愛し合う二人が一つになる瞬間 |
| 2 欲箭(よくせん) | 矢のようにまっすぐ相手へ飛んでいく欲求 | 「この人に会いたい」と胸が高鳴る気持ち |
| 3 触(しょく) | 肌と肌が触れ合うこと | 手をつなぐ、そっと肩を抱く |
| 4 愛縛(あいはく) | 離れがたく抱きしめ合うこと | 別れ際になかなか手を離せない |
| 5 一切自在主(いっせいしさいしゅ) | すべてが思いのままになったような満ち足りた心 | 「もう何もいらない」と思える充足感 |
| 6 見(けん) | 相手を見ること、見つめ合うこと | 好きな人の姿を目で追ってしまう |
| 7 適悦(てきえつ) | 触れ合って湧き上がる喜び | 抱き合ったときの、じんわりした幸福感 |
| 8 愛(あい) | 相手を愛おしく思う心 | 寝顔を見て「大切だな」と思う |
| 9 慢(まん) | 満ち足りて誇らしい心 | 「この人と一緒になってよかった」という自負 |
| 10 荘厳(そうげん) | 身を飾り、美しく整えること | デートの前に服を選び、髪を整える |
| 11 意滋沢(いしたく) | 心がしっとりと潤うこと | 長年連れ添った夫婦の穏やかな安らぎ |
| 12 光明(こうべい) | 光に包まれるような晴れやかな喜び | 世界が明るく見える恋のはじまり |
| 13 身楽(しんらく) | 身体が感じる心地よさ | 温泉につかって「ああ極楽」と声が出る |
| 14 色(しょく) | 目に映る美しいもの | 夕焼けに染まる紫尾山の稜線 |
| 15 声(せい) | 耳に届く心地よい音 | 朝のウグイス、孫の笑い声 |
| 16 香(きょう) | 鼻をくすぐる香り | 淹れたてのコーヒー、新茶の香り |
| 17 味(び) | 舌で味わう喜び | 地元の新鮮な魚、焼酎のお湯割り |
面白いのは、1から13までが男女の愛の営みを細かく描いたあと、14から17で「色・声・香・味」という日常の感覚へ一気に広がることです。つまり性の喜びだけが特別なのではなく、夕焼けを美しいと感じる心も、コーヒーをおいしいと感じる心も、すべて同じ「清浄」の仲間だと言っているわけです。
逆に言えば、夕焼けに見とれる気持ちを恥じる人がいないように、愛する人を求める気持ちも本来は恥じるものではない。理趣経はそう語りかけているように思えます。
「なぜなら、一切は本来清らかだから」
十七句の結びにある「何以故。一切法自性清浄故」が、この教えの核心です。「なぜか。あらゆるものは、その本性において清らかだからだ」という意味になります。
ここでいう「清浄」は、「きれいだから良い、汚いから悪い」という清潔さの話ではありません。仏教の「空」の考え方では、物事そのものに「汚れ」という性質は最初から備わっていないとされます。汚れて見えるのは、それを見る心が「自分だけ得をしたい」「相手を思い通りにしたい」としがみつくからです。
身近な例で考えてみます。包丁は料理を作る道具にもなれば、人を傷つける凶器にもなります。でも包丁そのものが善いとか悪いとかいうわけではありません。性欲も同じで、相手を慈しむ心と結びつけば二人を深く結ぶ力になり、自分勝手な心と結びつけば人を傷つける力にもなります。欲そのものは、もともと透明なのです。
泥の中に咲く蓮のように――百字偈
理趣経の最後には「百字偈(ひゃくじのげ)」という、五字×二十句の詩があります。十七清浄句の意味を、この詩が見事に解き明かしてくれます。とくに大切なのが次の部分です。
如蓮体本染 不為垢所染 諸欲性亦然 不染利群生 大欲得清浄 大安楽富饒
意訳すると「蓮は泥の中に生まれながら、泥に染まらず清らかな花を咲かせる。さまざまな欲もそれと同じで、その本性は染まることなく、人々を救う力となる。大きな欲こそ清らかになり、大きな安らぎと豊かさをもたらす」となります。
蓮は、きれいな水ではかえって大きな花を咲かせないと言われます。泥があるからこそ、あの美しい花が咲く。人間の欲も、なくしてしまえば清らかになるわけではない。泥のような欲を根っこにして、そこから花を咲かせるのが菩薩の生き方だ、というわけです。
もう一つの鍵が「大欲(たいよく)」という言葉です。自分ひとりが気持ちよくなりたいという小さな欲(小欲)を、相手も周りもみんな幸せにしたいという大きな欲へ育てていく。愛する人を抱きしめたいという気持ちが、「この人を一生大切にしたい」という願いにまで広がったとき、その欲はもう汚れではなく、菩薩の慈悲と同じものになるのだと思います。
性への迷いに、理趣経はどう答えるか
私が長年抱えてきた「性欲は汚れか、自然か」という問い。理趣経の答えは、どちらか一方ではありませんでした。「性欲そのものは本来清らかだ。それを汚すのも清らかに保つのも、向き合う心しだいだ」というものです。
これは、ただの快楽肯定とは違います。十七句を「好き放題してよい」というお墨付きと読み違えた人たちは昔からいて、鎌倉時代以降には性的な儀式に傾いた「立川流」のような異端まで生まれました。空海が最澄に理趣経の注釈書を貸さなかったのも、師から正しく学ばなければ誤解されやすい教えだと知っていたからだと言われています。
では、「清浄」である性とはどんなものか。私なりに考えると、次のような姿ではないかと思います。
- 相手の気持ちと身体を大切にし、同じ喜びを分かち合おうとすること
- 喜びを恥じて隠すのではなく、感謝して素直に味わうこと
- 若さや回数ではなく、触れ合いから生まれる安らぎや信頼を大事にすること
60代になると、若い頃のような激しさは薄れていきます。それを「衰え」と嘆く人もいますが、十七句の後半を思い出してください。手をつなぐ温かさ(触)、見つめ合う穏やかさ(見)、心が潤う安らぎ(意滋沢)。それらもまた立派な「菩薩の位」です。年を重ねたからこそ味わえる清浄句が、きっとあるはずです。
若い頃の私が後ろめたさを感じていたのは、欲そのものではなく「自分だけの欲」になりかけていた心に対してだったのかもしれません。そう気づけただけでも、長年の迷いが少し軽くなった気がします。
まとめ:欲を捨てるのではなく、大きく育てる
理趣経の十七清浄句は、男女の愛の喜びから、目・耳・鼻・舌で味わう日々の喜びまで、すべてを「清らかな菩薩の境地」と言い切ります。その理由は「一切法は自性清浄だから」。欲を汚しているのは欲そのものではなく、自分だけにしがみつく心です。
泥の中から咲く蓮のように、欲を根っこにしながら、相手と周りを幸せにする大きな欲へ育てていく。1200年前に空海が持ち帰ったこの教えは、性を恥じながらも否定しきれなかった私の迷いに、「恥じなくていい。ただ、大切に扱いなさい」と答えてくれた気がします。
今夜は焼酎のお湯割りでも飲みながら、「味清浄句是菩薩位(びせいせいくしほさい)」と心の中で唱えてみようと思います。



