「数学的頭脳には定義がある」とは? 真言密教から考える「文系の定義」


みなさんこんにちは。ハウルブログです。今日も元気にお過ごしでしょうか。
人生100年と言われる時代です。還暦(60歳)を過ぎても、まだ残り40年あります。このブログが、還暦を過ぎたみなさまにとって何かのヒントになればと思い、書き続けています。
今日は「数学的頭脳」について書いてみます。
「文系脳には定義がない」にドキッとした話
結論から言うと、「数学的頭脳には定義がある」とは「言葉の意味を先に決めてから考える習慣」のことです。そして文系の世界にも、実はこの習慣はちゃんとあります。今回は、大好きな真言密教を手がかりにそれを確かめてみました。
きっかけは、MBSラジオ「上泉雄一のええなぁ!」の公式YouTubeで配信されているポッドキャストでした。経済学者の高橋洋一さん(嘉悦大学教授)が「数学的な頭には定義がある。文系の頭には定義がない」と言い切っていたのです。
高橋さんは東京大学の理学部数学科を出て、経済学部でも学び、大蔵省(現・財務省)に入った方です。数学と行政の両方を知る人の言葉だけに、重みがあります。
とはいえ、筋金入りの文系の私としては少々ムッとしました。「じゃあ私は、定義という地図を持たずに歩いてきたのか?」と。
そこで腹を立てる前に、まず「定義とは何か」から考えてみることにしました。ムッとしたら定義から。これがもう数学的頭脳への第一歩かもしれません。
数学における「定義」とは何か
数学の定義とは、「この言葉はこういう意味で使う」と最初に決めてしまう約束です。決めたら最後まで、その意味から一歩もはみ出しません。
たとえば「偶数」。なんとなく「2、4、6みたいな数」と覚えている人が多いと思います。数学ではこう決めます。
- 偶数とは、2で割り切れる整数のこと
こう決めておくと、0は偶数か?という問いにも迷いません。0は2で割り切れるので偶数です。「なんとなく」で覚えていると、ここで意見が割れて、居酒屋で30分は揉めます。
数学はこの約束の上に、公理(証明なしで認める前提)と論理を積み重ねていきます。土台の言葉の意味が一つに決まっているから、誰が考えても同じ結論にたどり着けるわけです。
高橋さんの本『数学を知らずに経済を語るな!』には「定義に無頓着な人は騙される」という章まであります。たとえば「財政破綻」「借金」という言葉を、どの数字のことか決めずに使うと、話の印象だけに振り回されてしまう。高橋さんが言いたいのは、まさにそこでしょう。
つまり「数学的頭脳に定義がある」とは、計算が速いことではありません。議論を始める前に、言葉の中身を固定する習慣があるということなのです。
なぜ「文系には定義がない」と言われるのか
高橋さんの言う「文系」は、学問の分類というより「言葉の意味を決めずに議論する話し方」を指していると考えると、すっと腑に落ちます。
思い当たる場面は、日常にたくさんあります。
- テレビのコメンテーターが「景気が悪い」と言うが、何の数字が悪いのかは言わない
- 会議で「もっと住民の声を聞くべき」と決まるが、何人に、どう聞くかは決まらない
- 夫婦げんかで「あなたはいつもそう」と言われるが、「いつも」が何回なのかは誰も数えていない
最後の例は、わが家でも年に数回発生します。定義しないまま議論すると、最後は声の大きさと気分で勝負が決まります。数学の人から見れば、これは土台のない家に二階を建てているようなものです。
もう一つの理由は、文学や哲学の言葉がもともと「幅」を楽しむものだからでしょう。「愛とは何か」を一行で定義したら、恋愛小説は一冊も書けません。あいまいさに味わいがある。これが文系の豊かさでもあり、同時に弱点にもなるわけです。
では、文系の世界には本当に定義がないのか。ここで登場するのが、私が長年あこがれてきた空海さんの教え、真言密教です。
真言密教にある緻密な「定義」の体系
真言密教は、宗教という「文系」の世界にありながら、驚くほど定義がきっちりした教えです。空海さんは、言葉の意味を先に決め、その上に理論を積み上げる人でした。
いちばん分かりやすいのが「即身成仏」です。「この身のままで仏になる」と聞くと、ふわっとした精神論に聞こえます。ところが空海さんは『即身成仏義』の中で、これを三つの要素で定義しています。
| 要素 | 意味 | 数学でいうと |
|---|---|---|
| 六大(体) | 地・水・火・風・空・識の六つが、世界と仏の本体 | 公理(出発点) |
| 四曼(相) | 四種類の曼荼羅で、その姿を表す | 図・表現の約束 |
| 三密(用) | 身(印を結ぶ)・口(真言を唱える)・意(心を仏に向ける)のはたらき | 操作・手続き |
本体、すがた、はたらき。この三段で「即身成仏とは何か」を組み立てているのです。どうでしょう。公理を置き、表現を決め、手続きで結論を導く。まるで数学の教科書の構成です。
ほかにも、空海さんは『弁顕密二教論』で、顕教と密教の違いを項目ごとに定義して区別しました。さらに『十住心論』では、人の心のあり方を十の段階に分けて、一つずつ位置づけています。これはもう分類と定義の一大プロジェクトです。
1200年前の文系の大先輩が、こんなに「定義のある頭」を持っていた。私はここで、ちょっと胸を張りたくなりました。
文系にも定義はある——違いはどこにあるのか
文系にも定義はあります。違うのは「定義の閉じ方」です。数学の定義は紙の上で完結しますが、密教の定義は体験によって完成します。
身近な文系の例も挙げておきます。法律には、条文の最初のほうに「この法律において○○とは、△△をいう」という定義規定がずらりと並びます。会計にも「資産」「負債」の厳密な定義があります。文系の実務は、むしろ定義なしでは一日も回りません。
では、数学の定義と何が違うのか。比べてみるとこうなります。
| 比べる点 | 数学の定義 | 真言密教の定義 |
|---|---|---|
| 決め方 | 言葉だけで完全に決める | 言葉で枠を決め、修行で中身を満たす |
| 確かめ方 | 論理で証明する | 身・口・意の実践で確かめる |
| 解釈の幅 | ゼロにする | 段階に応じて深まる |
密教は、文字どおり「秘密の教え」です。言葉で説明しきれない部分は、師から弟子へ、実践を通して伝えるとされます。ここが数学との一番の違いです。言葉の外側に、もう一段の確かめ方を持っているのです。
こう考えると、高橋さんの「文系には定義がない」は、少し言い換えたほうが正確かもしれません。文系に定義がないのではなく、定義をせずに語る人が多い。そして定義を大切にした文系の人は、昔からちゃんといた。空海さんがその証拠です。
60代からの暮らしに活かす「定義する力」
「定義する力」は、数学が苦手な人でも今日から使えます。コツは、話し合いの前に「その言葉、どういう意味で使う?」と一言そろえることです。
私は自治会長をしていますが、会合でも効き目があります。たとえば「行事の負担を減らそう」という話。「負担」を「準備にかかる時間」と決めるか、「出費」と決めるかで、出てくる案はまるで違います。先に決めておくと、話が半分の時間でまとまります。
これはプロジェクトを組むときも同じです。プロジェクトを組むときには、実は二つのことを決めています。
一つは「何をもって成功とするか」「どこまでがこのプロジェクトの範囲か」といった、言葉の中身を決める部分。これはまさに定義です。
もう一つは「誰が、いつ、何をするか」という段取りで、こちらは計画です。先に成功と範囲を定義しておけば、計画の途中で迷っても「それは目的に役立つか?」で判断できます。
暮らしの中で試しやすい場面を挙げてみます。
- ニュースを見るとき:「過去最大」「急増」と聞いたら、何の数字の、いつと比べてかを確かめる
- お金の話:「老後資金が足りない」の「足りない」を、毎月いくらの不足かに置き換える
- 健康の目標:「体を動かす」ではなく「週3回、30分歩く」と決める
- 家族との会話:「ちゃんとして」の「ちゃんと」を、具体的に何をすることか聞いてみる
最後のは、聞き方を間違えると火に油なので、笑顔でどうぞ。
密教から学べることもあります。定義は頭で決めて終わりではなく、体で確かめて初めて自分のものになる、ということです。
「週3回歩く」と決めたら、実際に歩いてみる。歩いてみて、無理なら定義を直す。
これは三密の考え方を、暮らしに小さく取り入れたものだと言えるかもしれません。
まとめ:文系の頭にも、定義という骨組みを
「数学的頭脳には定義がある」とは、言葉の意味を先に固めてから考える習慣のことでした。そして文系にも定義はあり、真言密教はその見事なお手本です。
高橋さんの「文系には定義がない」は、刺激の強い言い方です。けれど、定義せずに語る怖さを教えてくれる、ありがたい警告でもあります。ムッとした分だけ、学びがありました。
空海さんは言葉で枠を決め、実践で中身を満たしました。数学は言葉だけで完全に決めます。どちらも「定義のある頭」です。違いは、確かめ方にあるだけでした。
文系の私も、今日から会話の前に一言、「それって、どういう意味?」。長年使ってきたこの頭に、定義という柱をもう一本立ててみようと思います。
参考
- 高橋洋一『数学を知らずに経済を語るな!』(紀伊國屋書店の紹介ページ):著者の経歴と、「定義に無頓着な人は騙される」の章を確認
- 空海『即身成仏義』『弁顕密二教論』『十住心論』
- 高橋洋一氏の発言は、MBSラジオ「上泉雄一のええなぁ!【公式】」(YouTube)のポッドキャストで筆者が聞いた内容をもとにしています



